帰りました

祖父の葬儀を終え昨夜夜半過ぎに鳥取から帰宅。協力してくれた人達に感謝。
肺ガンでした。去年末に検査で発見しましたが、もうこの歳になったらいつどうなるか分からんしとか本人が言って特に延命治療はせず緩和ケアを受けることにしたそうです。しかしその頃からあまり食欲もなくなり丸かった体がどんどん痩せていって、7月には脱水症状で病院へ運ばれそのまま入院。9月には89を迎えていました。
9年前くらいまでは母方のじいちゃんの実家へ毎年のように夏冬に家族で帰省していたのですが(父方は地元)、うちの父親やあちらのばあちゃんが相次いで体調を崩したこともありずっとあちらへ帰らずにいました(母は時々顔を見せに帰っていた)。僕は毎月電話を掛けていましたが、ここ数年はじいちゃんも少し認知症が入ってたまに同じ事を聞いてきたりはしたものの他は特に何も聞いてなかったので、本当に急でした。

小さい頃1人で列車に乗ってあちらへ帰った時はじいちゃんが駅まで出迎えてくれました。車で帰った時は玄関でまず頬ずりされましたがヒゲがジョリジョリしてそれはそれはこそばゆいものでした。大阪まで付き添ってくれたり、たまに大阪まで顔を見せに来たりもしました。僕ら3兄弟に簡保掛けたり(目の手術でとても助かった)、毎年20世紀梨や菓子詰めの段ボールを送ってくれたり。自分は初孫ということで特に随分可愛がって貰ったようです。あまりにだらけていると流石にちょっと怒られたりはしましたがw、母ややばあちゃん曰く、じいちゃんは僕の事をいつも気に掛けていたそうです。ばあちゃんが何かしんどそうにしてたら「かーさんはじっとしとれや」とか言い放って家事を奪い去ってた記憶もあります。他人想いの優しい人だったんだと思います。ガンの痛みも「痛い」とか「しんどい」とか全然口に出さなかったそうですし。

今年7月に入院した後、7月末に日帰りで見舞いに行きました。鳥取へ行くのも本当に久しぶりでしたが、じいちゃんちの匂いは昔と同じでした。介護用ベッドがあって多少散らかってはいましたが。家から病院までは車で数分の近距離で、バイパスが出来てました。数か月前の写真は見てましたが、やっぱり随分痩せていました。あまり食べ物が喉を通らないようで、点滴を受けていました。ただ飲み物は少しはいけるようで、好きだったスーパードライの小さい缶をちょびちょび飲ませてもらっていたようです。話すのはちょっとしんどそうでしたが、ニコニコしてたので喜んで貰えたんだと思います。その時は「また来るから」と言って帰りました。

結局最期には間に合いませんでした。鳥取行きを予定していた日の2日前に容態が急に悪くなり、翌朝イチで向かったのですが2時間間に合いませんでした。鎮痛剤が効いたまま、眠るように息を引き取ったそうです。泊まりで付き添っていた母は僕がもうすぐ来るからとずっと声を掛けていたそうです。お風呂で綺麗にした亡骸は一度家に回ってから葬儀場へ安置しました。一緒に飲むつもりで買ってきてたビールは枕元へ置いておきました。風呂上がりには丁度よかったと思います。でも出来たら一緒に飲みたかったなあ。僕が大人になったら一緒に飲みたいと昔から言っていたから。しかしこうやって思い返したまま書いてみると、自分はまあ随分おじいちゃんっ子だったようですね。もっとちゃんと生きてる間に、最後の話をしたかった。それだけが一番心残り。まあでもまた僕がじいちゃんのところへ行ったら、一緒に乾杯でもしましょう。


そしてそんな感じの話を思い付きのまま葬儀で少しだけスピーチさせてもらったら、自分の肉親の葬儀でも泣いたことがないという父がガチ泣いててびびった。なんか滅多にこんな事話さないから驚いたとか言ってましたが、自分口下手ですけど色々思ってることはあるんです。でも思い切って話させて貰ってよかった。出来ればじいちゃんに直接話したかったけれど。

ちなみに亡くなったのは2010年10月10日午前10時10分。やたら憶えやすいのはいいのか悪いのか… もうちょっと遅くてもよかったんですよホントにね。